「Little Land」について

「Little Land(リトルランド)」は、山崎<Zacky>浩史が中心となって発行していた岡田有希子の専門ミニコミ誌です。 このミニコミ誌について、すこしだけお話させて下さい。

「佐藤佳代(=岡田有希子)がついにデビューする」と知ったのは、 受験シーズン真っ只中だった高校3年の冬のことでした。 ニコンフレッシュギャルコンテスト出場当時からチェックを入れていた僕としては 「進学」か「岡田有希子」か、の2つの選択肢の中から迷わず後者を選びました。 少しぐらい迷えばいいのに、です。ここにリトルランド誕生物語の序章が奏でられ始めました。

当時、趣味で歌謡ミニコミ誌の編集をやっていた僕は、 友人を有希子スマイルの虜にすべく直ちに活動を開始。 すぐに数名の仲間を獲得し、1984年の2月には有希子の専門ミニコミ誌を発行することを宣言して、 その準備に入りました。 まず手始めに、有希子が初めて観客の前で「ファーストデート」を歌う3月10日のお菓子フェアの会場で 創刊準備号を観客の皆さんに無料で配布。 有希子とマネージャーの万里さんにも手渡すことができ、順調なスタートを切ることができました。

それから約2年間、通算17号にわたってリトルランドは有希子とともに歩み続けてきました。 最高発行部数は1,000部に達し、読者の中から編集スタッフに加わってくれる人がでてきたり、 読者同志の横のつながりも自然発生的におこるなど、 当初は想像もしていなかったメジャーな展開を繰り広げていくことになります。 また、有希子も本当に熱心な読者のひとりでした。インタビューや読者プレゼントなど、 いろいろな面で随分と協力してもらいましたし、意見や感想を寄せてもくれました。 リトルランドは、編集スタッフだけでなく、有希子と有希子をとりまく沢山の人たちの、 色々な想いがいっぱい詰まった宝の箱なのです。

しかし、岡田有希子やリトルランドがメージャーになるにつれて、僕の苦悩は徐々に深まっていきました。 リトルランドが少しづつ自分の手の届かないところに行ってしまうのを、 あわただしい時の流れの中でどうすることもできずに見守っていることしかできない・・・。 創刊から約1年、第10号の発行を区切りに僕は編集長の座を降り、 少し冷静に自分を見つめ直すことにしました。 有希子が、デビューという大きな目標を達成してしまってから次の明確な進路を見つけられずに 嵐の海でひとりさまよい始めていることも、僕の心の中に暗い影を落としていました。 やり場のない苛立ちを抱えたまま、苦悩に満ちた1年の月日が流れました。 僕以外のリトルランドのスタッフにも疲労の色がありありと浮かび、存続の危機。 一方、有希子と有希子を取り巻く状況も、それ以上に混迷を深めているとしか思えませんでした。

そして、運命の日。

僕は、随分と回り道をしながら、4月から大学生になりました。 リトルランドをもう一度自分の手に取り返そうという密かな決意を抱きながら、それでもまだ、 自分の気持ちに確信を持てないで悶々としていたそんなある日。有希子は空を飛んだのです。

やっと自由になれたね、有希子も僕も。

四谷3丁目に向かうために大学の正門の前から飛び乗ったタクシーの中で、 僕も空を飛べるだろうかと必死に考えていました。この問に答えを出すことだけが、 その時の僕にできるたった一つのことに思えたからです。

しかし、僕が囚われの身でなくなるまでには、さらに1年の月日が必要でした。 1987年4月にリトルランド編集部が解散。 僕の中で最高に楽しくて本当に苦しかった3年間が、ようやく幕を閉じました。 心残りなのは、有希子が悔しくて辛くて眠れない夜を過ごしていたあの時の僕自身。 リトルランドに必死の思いで託してくれたメッセージを、どうしてあの時の僕らは見過ごしてしまったの?

今も、多くのファンの心の中に有希子は生き続けています。 僕も、僕自身の心の中で生き続けている有希子を大切に想っています。 この想いが、これから先どうなっていくのか分かりません。 ただ、本当に大切なものを失いたくない、そう考えています。

ペーパーメディアであるリトルランドは、少しづつですが確実に朽ち果てていきます。 リトルランドをウェッブページで復刻することに賛同して下さる方は、ぜひ編集長までメール下さい。

Mail to 編集長 okayu@anet.ne.jp

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